NHKスペシャル 「総書記−残された声−」胡耀邦のお話

「誰かを盲目的に信じるのではなく独立した思考であるべきだ。党 組織 国家はみな、正常化 民主化 法治化するべきである。一人の人間の言ったことがすべてということに反対しなければならない。」

 

これは胡耀邦の言葉であるが、まさに憲法をなぜ制定するのかという立憲君主制そのものを語っているようにしか思えない。 

 

 今日のNHKスペシャルは、山崎豊子胡耀邦とのインタビュー記録の放映だ。しかも、このインタビューは、胡耀邦中国共産党総書記の地位にあった時代と見事に重なる。これは観なくてはならない。中曽根康弘毛沢東元秘書、唐家璇元外相、エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大名誉教授)などにも独自にインタビューを行っていることも緻密な取材の痕跡を覗わせた。

 

 中曽根康弘の首相として靖国神社公式参拝のときの中国共産党総書記(1982-1986年)の地位にあった人物がこの胡耀邦である。彼は、鄧小平の改革開放政策の方針のもと、「百花斉放(様々な意見を認め、自由に議論すること)」をスローガンに添えて、人民のために、世界と日本と開放政策を推し進めようとした人物である。

 

 さらに彼は、文化革命によって反革命分子として自己批判→再教育(農村で3年間の労働)を経て、トップの座に付いたいわば、苦労人である。文革の中で、(毛沢東という)ひとりの人間を民衆が盲信することで暴走してくあり様を体験している。ここに様々な意見も認めて議論するべきだという信念を形成していったようである。

 

 また天安門事件のきっかけはこの胡耀邦の死である。鄧小平は、天安門事件後の講話で、胡耀邦日中友好政策や国内の思想教育が事件の要因との認識を示し、民族教育と愛国教育を強化する方向に導いてしまう。またその後の中国共産党指導部に「親日的政策はひとつのリスクになりうる」という刷り込みとして後々まで残す事となった。以降、反日を利用した国威向上などを繰り返す結果となり今日まで至っている。

 

以下は、胡耀邦の発言の一部である。頭の片隅に残しておきたいものばかりである。

 

「我々が開放政策を実行しなければ、日本人と長期的友好的に付き合うことを重んじなければ、世界各国と付き合うことを重んじなければ、国の進路を誤ることになってしまう。」

 

愛国心の行き過ぎを日本も中国も防がなければなりません。」

 

山本五十六愛国主義は、極めて狭い。戦勝中は私たち中国人民の利益、東南アジアの利益を考えなかったからです。それはその狭すぎる愛国主義ですから。」

 

「日本人が愛国主義だけを提唱し、日中友好を提唱しないなら、このような愛国主義は不健全だと考えます。中国の場合も日中友好を重んじない愛国主義は不健全です。」

 

「極端な民族主義、狭い愛国主義には陥ってはならない。国家の主人公は人民であり、人民同士が対立する必要はない。」

 

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現代の名演奏家50 ークラシック音楽の天才・奇才・異才ー 中川右介著 幻冬舎新書

  本書は、基本的に過去の中川氏の著作を読んでいる御仁、またクラシックに詳しい方からすると得るものはないと言って差し支えない。むしろ初見の人を惑わせるような書き方をしていたりと、随分といい加減な著作物といっていいだろう。ただし、それを言っては揚げ足取りとなるので、始まらない。よって、ここは好意的に書いてみることにしよう。

 

 本書は、人選について文句はあるものの、文句なしに楽しめる好著である。さらに、個々のクラシック音楽愛好家の楽しみを奪う誠に危険な著作であること勝手に言い切ってしまおう。第一に、人選する際に音源がユニバーサルミュージックのステレオ録音がある演奏家に限られているため、リッカルド・ムーティリッカルド・シャイーといった世界的指揮者を網羅していない点で不満が残る。第二に、楽しみを奪うという点で誠にやっかいで危険な本である。クラッシク音楽について、体系的な勉強をしたことがない人は、通常CDやLPのライナーノーツなどを読むことで断片的知識を得る。何度もこの作業を繰り返していく内に蓄積された知識が繋ぎ合わさり、「ああ、そうだったのかあ。」と合点する喜びを奪う可能性の恐ろしい著作なのである。そうした楽しみを大事にとっておきたい方はどうぞ遠慮されることを強くオススメする。同時に、そうした楽しみを積極的に放棄されたい諸氏には一読することをオススメする。読了後には、19世紀および20世紀という戦争の世紀において、ファシズムナチス支配、共産党独裁、冷戦といった価値観の激動する時代の荒波に翻弄された演奏者達の人生と政治とのラプソディーの鳥瞰図を手中に収めることができる。

 

 このように書くと難解な書物と思われる方もいらっしゃるだろうが、安心してください。文章は至って平易であり、血なまぐさい内容は書かれていない。さらに付け加えて申し上げれば、本書は「クラッシク・プレミアム」という小学館が出版していたマガジン掲載された文章が下地となっているため、一人につき5頁から10頁前後と短く読みやすい。込み入った政治的背景が出てくると、頁がいくらあっても足りなくなるので、著者は、巧みに避けている。読者は、「そういう状況だったのね」と、細かい事例に入り込み過ぎることなく読み進めることが出来る。勿論、第一次大戦前後から冷戦終結までの知識をお持ちの方にとっては、行間を埋められる点で一粒で二度美味しいとも言える。これの周辺知識に不安を覚える方は、NHKが放送した新映像の世紀を是非ご覧になって本書をお読みいただければ美味しく楽しめると思われる。また著名な音楽評論家である吉田秀和氏といった偉人たちの著作とも違い、譜面を読むための音楽知識は必要とされていないため、これらが理解できないためにもどかしい気持ちになることはないと断言できる。クラシック音楽に興味を持ち、上述の楽しみを積極的に放棄される私のようなクラシック愛好家にはうってつけの本であり、休日に数時間で読める気楽な読み物と思って手に取られると良い。

 

 第一番目に登場する演奏家は、カルロス・クライバーという世界的指揮者である。ご存じの方も多いと思うが、彼の父は著名なウィーンの指揮者エーリッヒ・クライバーである。父の威光を排除する形を取り、デビューの演奏会で名前を「カール・ケラー」と偽り指揮をした。聴衆から拍手喝采で迎え入れられたのである。その後の1956年エーリッヒ・クライバーは突然逝去したものの、彼はデュッセルドルフの歌劇場で練習指揮者として修行を重ねて次第に有名になっていた。父の死をネタにして有名になる方策は取らずただ研鑽を重ねたのである。こうしたことを踏まえると、彼が後に完璧主義者と称される彼の美学を垣間見ることが出来る。その完璧主義のため、著名な指揮者と比べると録音も極めて少ない。さらにレパートリーも少ない。徹底的に研究して消化し尽くした曲でしか演奏をしないのである。それも十分に楽団員と練習を重ねてからである。しかし、その演奏は今の言葉で表すなら「キレッキレ」である。それまでのベートーヴェンの音楽とは思えない、ジャズのような趣で度肝を抜かされる。ウィーンフィルを指揮したベートーヴェン交響曲第5番、第7番をお聞きなってみてください。ビックリすること請け合いである。

 

 ここまでは少しクラシック音楽に足を踏み入れたことのあるものなら結構知られたことである。そこで中川氏は、時間軸を動かす。1933年ナチス政権樹立後に起点を持ってくる。この翌年1934年、一大事件が起こる。19世紀、20世紀における最大の世界的指揮者の1人であるフルトヴェングラーナチス政権と対立し、ベルリンでの公職を辞任する。それに続いてカルロス・クライバーの父であるエーリッヒ・クライバーも州立歌劇場を辞任すると宣言する。フルトヴェングラーは復帰するも、エーリッヒは契約終了時の1935年1月にベルリンを去る。ほぼ同時期に起こった出来事として、ブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーといった輝かしい名指揮者がベルリンから出ていき、一気に人材不足に落ちいた。そのさなかに彗星のごとく出現したのがあの帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンである。名指揮者たちがいなくなり、帝王が誕生したというわけである。その後、カラヤンナチス党員となり、その影響力を駆使して、縦横無尽の活躍をしていくことになるのである。そんな構図があって、時は流れてエーリッヒの息子であるカルロス・クライバーは1954年にデビューしたのである。ちなみに、1989年にカラヤンベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者を辞任することになるのだが、後任にはカルロス・クライバーが楽団員によって選ばれた。でもそれを彼は断った。そこで就任したのがイタリア人指揮者のクラウディオ・アバドである。その後アバドによる長期政権が樹立したが契約の延長をしないと表明したあど、後任には客演を重ねていたバレンボイムと思われていたが、ラトルがベルリン・フィルを受け継ぎ今日に至るわけである。これらすべてにフルトヴェングラーカラヤンベルリン・フィルが関わってくるわけである。

 

 2番目の演奏家は、フリードリヒ・グルダである。ここでもカラヤンフルトヴェングラーを絡ませた物語が展開していく。またバレンボイムイスラエル国籍の著名な指揮者であり世界的ピアニストである。彼はベルリン・フィルイスラエル公演を実現させたが、そこでもカラヤンが登場してくるのである。個々の演奏家に焦点を当てる中で、歴史的背景も踏まえながらも決して重々しくならず、それぞれの演奏家の周りにいる人物をが点と点とを結び、有機的な繋がりを見せていく。この巧妙かつ軽妙である戦略的な語り口は、まるでクラウディオ・アバドの指揮のようである。良くも悪くも、好きも嫌いもカラヤンの偉大さを再認識することになる一冊であることも間違いない。そういう私はカラヤンの演奏は俺様過ぎて得意ではないのだが、それは人それぞれの好みということで大いにクラッシク音楽を楽しみましょう。

書評「蕩尽王、パリをゆく 薩摩治郎八」鹿島茂著 新潮選書 2011年11月

 「蕩尽の限りを尽くしてレジオン・ドヌール勲章を授与された人物」は、「東洋のロックフェラー」、「バロン薩摩」などと呼ばれた。その名を、「薩摩次郎八」という。本書は薩摩次郎八の伝記であり、研究書でもある。著者は、パリ研究のプロ中のプロ、鹿島茂氏である。読まないわけにはいかないだろう。

 

 薩摩治郎八は、最もパリが輝いた時代である戦間期(第1次世界大戦と第二次世界大戦の間)において、パリの社交界にデビューして刮目された。その理由は、祖父と父が事業で築いた資産、現在価値に換算しておおよそ200億から800億といわれる資産を使い尽くして来たからだけという訳では勿論ない。それだけでは、フランス政府がレジオン・ドヌール勲章を与えることはない。では、一体どんなレベルで彼は「蕩尽」してきたのであろうか。繰り返すが、「散財」ではなく、タイトルにある通り「蕩尽」である。貴族は散財すれど蕩尽はしない。素晴らしいではないか。

 

 読み進めていくと、日仏文化交流のために尽力する文化事業家を自認して、パリ国際大学都市日本館の設立に尽力している。さらには、ラヴェルを中心としたフランス現代(近代)音楽の紹介している。例えば、ピアニスト ジル=マルシェックス氏の来日公演(於 帝国ホテル)の実施、さらには皇后の御前演奏まで行ったというこであることが明らかにされている。また「修禅寺物語(LE MASQUE)」のパリ公演にも上演準備委員会委員長として尽力しているとも判明する。どんな「蕩尽」をすれば勲章がもらえるのかは本書に譲ることとしてその生活を見ることにしてみよう。

 

 まずは治郎八の著作「半生の夢」「せ・し・ぼん」から引用し、垣間見ることにしてみよう。

 

 「私が妻に造ってやった特製の自動車は、

  純銀の車体に淡紫の塗りで、

  運転手の制服は銀ねずみに純金の定紋

  妻の衣装はリュー・ド・ラペの

  ミランド製の淡紫に銀色のビロードの

  タイニールであった。

  これでカンヌの

  自動車エレガンス・コンクールに

  出場し、瑞典王室その他の

  車と競って、特別大賞を獲得した。」

 

 一方、治郎八自身の装いや身の回りの品と言えばどういうモノであったのであろうか。作家の獅子文六は、治郎八から直接聞き書き記したとおぼしき贅沢品の描写をこんなふうに連ねている。

 

  「そして、太郎治のゼイタクも、

   紀文大尽並になった。彼の

   シガレット・ケースというのは、

   ロンドンのダンヒルに特別注文した

   ものだそうだが、プラチナ製で、

   蓋は黒漆塗り、それに星型に

   ダイヤをちりばめておあり、

   誰の目をも驚かすに、充分だった。

    また、自宅の家具も、

   フランスの古城で用いた

   ルイ王朝時代のものを、

   骨董的値段で買い入れ、

   日本から取り寄せた金襴で、

   貼り直すというゼイを尽くした。

   自用の香水も、特別調整で

   あまりすという名をつけた。」

 

 ちなみに、治郎八の装いについても当時のモードの最先端を行っていた。ランバンに紺の燕尾服がを初めて注文している。いまでこそ男性服でも著名なブランドにして知らぬ者のいない「ランバン」であるが(当時は女性服のオートクチュールブランドであったが)、男性部門についてはできて間もないところであった。そこに初めて紺の燕尾服をフルオーダーで注文した上に、パリ国際大学都市日本館の落成パーティ(於 ホテル・リッツ)で着用し、パリ社交界で紺の燕尾服を流行させたのである。いまや定着しているがのだからその服装に関する知識やセンスたるもの尋常ではないことが分かる。

 

 当時付き合いのあった人物のなかでも、有名どころとしては、作家のジャン・コクトー、画家のマチス藤田嗣治、作曲家のドラージュ、ラヴェル、シュミット、ミロー、ピアニストのジル=マルシェックスといった音楽家、日本人では、福島繁太郎や貴族院議員も務めた一条実考といった錚々たる顔ぶれである。こうした人々との付き合いが、彼を日仏両国の文化事業家たらしめて行くのである。詳細については、本文に譲ることにし、たっぷりと楽しんでいただければと思う。 

 

 治郎八の晩年については、かなりの駆け足で進むため、鹿島氏にしては「?」とも思える展開のスピードで話が進む。勿論、話の整合性が欠くことはないが、残念ながら尻切れトンボの感が否めない。著者も述べているように、本書は雑誌「BRIO」に掲載された文章が基本となっている。この雑誌がリーマンショックの影響で停止してしまったために連載の内容も中途半端な終わり方になってしまったということらしい。鹿島氏の正直な告白を受け入れ水に流してあげようではないか。

 

 治郎八の最晩年は、フランスに再訪することを夢見つつも自力で訪れることのできない程の生活を強いられたのだが、その生活を心底楽しいんでした様子を知って、胸を熱くし、その洒脱さに感服した。若かれし頃の瀬戸内寂聴女史のインタビューには、「極上のレストランを知り尽くした彼が、場末の食堂で、なにかのフライだったか定食だったかを、美味しい美味しいといって食べていた」という趣旨の文があった。彼の生き様を1人でも多くの日本人に読んで知って頂きたい。暇人でお金のある有閑階級の方々は、「蕩尽」してどこの国でもいいから勲章を貰ってみたいと思って頂ければ幸いである。