書評「蕩尽王、パリをゆく 薩摩治郎八」鹿島茂著 新潮選書 2011年11月

 「蕩尽の限りを尽くしてレジオン・ドヌール勲章を授与された人物」は、「東洋のロックフェラー」、「バロン薩摩」などと呼ばれた。その名を、「薩摩次郎八」という。本書は薩摩次郎八の伝記であり、研究書でもある。著者は、パリ研究のプロ中のプロ、鹿島茂氏である。読まないわけにはいかないだろう。

 

 薩摩治郎八は、最もパリが輝いた時代である戦間期(第1次世界大戦と第二次世界大戦の間)において、パリの社交界にデビューして刮目された。その理由は、祖父と父が事業で築いた資産、現在価値に換算しておおよそ200億から800億といわれる資産を使い尽くして来たからだけという訳では勿論ない。それだけでは、フランス政府がレジオン・ドヌール勲章を与えることはない。では、一体どんなレベルで彼は「蕩尽」してきたのであろうか。繰り返すが、「散財」ではなく、タイトルにある通り「蕩尽」である。貴族は散財すれど蕩尽はしない。素晴らしいではないか。

 

 読み進めていくと、日仏文化交流のために尽力する文化事業家を自認して、パリ国際大学都市日本館の設立に尽力している。さらには、ラヴェルを中心としたフランス現代(近代)音楽の紹介している。例えば、ピアニスト ジル=マルシェックス氏の来日公演(於 帝国ホテル)の実施、さらには皇后の御前演奏まで行ったというこであることが明らかにされている。また「修禅寺物語(LE MASQUE)」のパリ公演にも上演準備委員会委員長として尽力しているとも判明する。どんな「蕩尽」をすれば勲章がもらえるのかは本書に譲ることとしてその生活を見ることにしてみよう。

 

 まずは治郎八の著作「半生の夢」「せ・し・ぼん」から引用し、垣間見ることにしてみよう。

 

 「私が妻に造ってやった特製の自動車は、

  純銀の車体に淡紫の塗りで、

  運転手の制服は銀ねずみに純金の定紋

  妻の衣装はリュー・ド・ラペの

  ミランド製の淡紫に銀色のビロードの

  タイニールであった。

  これでカンヌの

  自動車エレガンス・コンクールに

  出場し、瑞典王室その他の

  車と競って、特別大賞を獲得した。」

 

 一方、治郎八自身の装いや身の回りの品と言えばどういうモノであったのであろうか。作家の獅子文六は、治郎八から直接聞き書き記したとおぼしき贅沢品の描写をこんなふうに連ねている。

 

  「そして、太郎治のゼイタクも、

   紀文大尽並になった。彼の

   シガレット・ケースというのは、

   ロンドンのダンヒルに特別注文した

   ものだそうだが、プラチナ製で、

   蓋は黒漆塗り、それに星型に

   ダイヤをちりばめておあり、

   誰の目をも驚かすに、充分だった。

    また、自宅の家具も、

   フランスの古城で用いた

   ルイ王朝時代のものを、

   骨董的値段で買い入れ、

   日本から取り寄せた金襴で、

   貼り直すというゼイを尽くした。

   自用の香水も、特別調整で

   あまりすという名をつけた。」

 

 ちなみに、治郎八の装いについても当時のモードの最先端を行っていた。ランバンに紺の燕尾服がを初めて注文している。いまでこそ男性服でも著名なブランドにして知らぬ者のいない「ランバン」であるが(当時は女性服のオートクチュールブランドであったが)、男性部門についてはできて間もないところであった。そこに初めて紺の燕尾服をフルオーダーで注文した上に、パリ国際大学都市日本館の落成パーティ(於 ホテル・リッツ)で着用し、パリ社交界で紺の燕尾服を流行させたのである。いまや定着しているがのだからその服装に関する知識やセンスたるもの尋常ではないことが分かる。

 

 当時付き合いのあった人物のなかでも、有名どころとしては、作家のジャン・コクトー、画家のマチス藤田嗣治、作曲家のドラージュ、ラヴェル、シュミット、ミロー、ピアニストのジル=マルシェックスといった音楽家、日本人では、福島繁太郎や貴族院議員も務めた一条実考といった錚々たる顔ぶれである。こうした人々との付き合いが、彼を日仏両国の文化事業家たらしめて行くのである。詳細については、本文に譲ることにし、たっぷりと楽しんでいただければと思う。 

 

 治郎八の晩年については、かなりの駆け足で進むため、鹿島氏にしては「?」とも思える展開のスピードで話が進む。勿論、話の整合性が欠くことはないが、残念ながら尻切れトンボの感が否めない。著者も述べているように、本書は雑誌「BRIO」に掲載された文章が基本となっている。この雑誌がリーマンショックの影響で停止してしまったために連載の内容も中途半端な終わり方になってしまったということらしい。鹿島氏の正直な告白を受け入れ水に流してあげようではないか。

 

 治郎八の最晩年は、フランスに再訪することを夢見つつも自力で訪れることのできない程の生活を強いられたのだが、その生活を心底楽しいんでした様子を知って、胸を熱くし、その洒脱さに感服した。若かれし頃の瀬戸内寂聴女史のインタビューには、「極上のレストランを知り尽くした彼が、場末の食堂で、なにかのフライだったか定食だったかを、美味しい美味しいといって食べていた」という趣旨の文があった。彼の生き様を1人でも多くの日本人に読んで知って頂きたい。暇人でお金のある有閑階級の方々は、「蕩尽」してどこの国でもいいから勲章を貰ってみたいと思って頂ければ幸いである。