現代の名演奏家50 ークラシック音楽の天才・奇才・異才ー 中川右介著 幻冬舎新書

  本書は、基本的に過去の中川氏の著作を読んでいる御仁、またクラシックに詳しい方からすると得るものはないと言って差し支えない。むしろ初見の人を惑わせるような書き方をしていたりと、随分といい加減な著作物といっていいだろう。ただし、それを言っては揚げ足取りとなるので、始まらない。よって、ここは好意的に書いてみることにしよう。

 

 本書は、人選について文句はあるものの、文句なしに楽しめる好著である。さらに、個々のクラシック音楽愛好家の楽しみを奪う誠に危険な著作であること勝手に言い切ってしまおう。第一に、人選する際に音源がユニバーサルミュージックのステレオ録音がある演奏家に限られているため、リッカルド・ムーティリッカルド・シャイーといった世界的指揮者を網羅していない点で不満が残る。第二に、楽しみを奪うという点で誠にやっかいで危険な本である。クラッシク音楽について、体系的な勉強をしたことがない人は、通常CDやLPのライナーノーツなどを読むことで断片的知識を得る。何度もこの作業を繰り返していく内に蓄積された知識が繋ぎ合わさり、「ああ、そうだったのかあ。」と合点する喜びを奪う可能性の恐ろしい著作なのである。そうした楽しみを大事にとっておきたい方はどうぞ遠慮されることを強くオススメする。同時に、そうした楽しみを積極的に放棄されたい諸氏には一読することをオススメする。読了後には、19世紀および20世紀という戦争の世紀において、ファシズムナチス支配、共産党独裁、冷戦といった価値観の激動する時代の荒波に翻弄された演奏者達の人生と政治とのラプソディーの鳥瞰図を手中に収めることができる。

 

 このように書くと難解な書物と思われる方もいらっしゃるだろうが、安心してください。文章は至って平易であり、血なまぐさい内容は書かれていない。さらに付け加えて申し上げれば、本書は「クラッシク・プレミアム」という小学館が出版していたマガジン掲載された文章が下地となっているため、一人につき5頁から10頁前後と短く読みやすい。込み入った政治的背景が出てくると、頁がいくらあっても足りなくなるので、著者は、巧みに避けている。読者は、「そういう状況だったのね」と、細かい事例に入り込み過ぎることなく読み進めることが出来る。勿論、第一次大戦前後から冷戦終結までの知識をお持ちの方にとっては、行間を埋められる点で一粒で二度美味しいとも言える。これの周辺知識に不安を覚える方は、NHKが放送した新映像の世紀を是非ご覧になって本書をお読みいただければ美味しく楽しめると思われる。また著名な音楽評論家である吉田秀和氏といった偉人たちの著作とも違い、譜面を読むための音楽知識は必要とされていないため、これらが理解できないためにもどかしい気持ちになることはないと断言できる。クラシック音楽に興味を持ち、上述の楽しみを積極的に放棄される私のようなクラシック愛好家にはうってつけの本であり、休日に数時間で読める気楽な読み物と思って手に取られると良い。

 

 第一番目に登場する演奏家は、カルロス・クライバーという世界的指揮者である。ご存じの方も多いと思うが、彼の父は著名なウィーンの指揮者エーリッヒ・クライバーである。父の威光を排除する形を取り、デビューの演奏会で名前を「カール・ケラー」と偽り指揮をした。聴衆から拍手喝采で迎え入れられたのである。その後の1956年エーリッヒ・クライバーは突然逝去したものの、彼はデュッセルドルフの歌劇場で練習指揮者として修行を重ねて次第に有名になっていた。父の死をネタにして有名になる方策は取らずただ研鑽を重ねたのである。こうしたことを踏まえると、彼が後に完璧主義者と称される彼の美学を垣間見ることが出来る。その完璧主義のため、著名な指揮者と比べると録音も極めて少ない。さらにレパートリーも少ない。徹底的に研究して消化し尽くした曲でしか演奏をしないのである。それも十分に楽団員と練習を重ねてからである。しかし、その演奏は今の言葉で表すなら「キレッキレ」である。それまでのベートーヴェンの音楽とは思えない、ジャズのような趣で度肝を抜かされる。ウィーンフィルを指揮したベートーヴェン交響曲第5番、第7番をお聞きなってみてください。ビックリすること請け合いである。

 

 ここまでは少しクラシック音楽に足を踏み入れたことのあるものなら結構知られたことである。そこで中川氏は、時間軸を動かす。1933年ナチス政権樹立後に起点を持ってくる。この翌年1934年、一大事件が起こる。19世紀、20世紀における最大の世界的指揮者の1人であるフルトヴェングラーナチス政権と対立し、ベルリンでの公職を辞任する。それに続いてカルロス・クライバーの父であるエーリッヒ・クライバーも州立歌劇場を辞任すると宣言する。フルトヴェングラーは復帰するも、エーリッヒは契約終了時の1935年1月にベルリンを去る。ほぼ同時期に起こった出来事として、ブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーといった輝かしい名指揮者がベルリンから出ていき、一気に人材不足に落ちいた。そのさなかに彗星のごとく出現したのがあの帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンである。名指揮者たちがいなくなり、帝王が誕生したというわけである。その後、カラヤンナチス党員となり、その影響力を駆使して、縦横無尽の活躍をしていくことになるのである。そんな構図があって、時は流れてエーリッヒの息子であるカルロス・クライバーは1954年にデビューしたのである。ちなみに、1989年にカラヤンベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者を辞任することになるのだが、後任にはカルロス・クライバーが楽団員によって選ばれた。でもそれを彼は断った。そこで就任したのがイタリア人指揮者のクラウディオ・アバドである。その後アバドによる長期政権が樹立したが契約の延長をしないと表明したあど、後任には客演を重ねていたバレンボイムと思われていたが、ラトルがベルリン・フィルを受け継ぎ今日に至るわけである。これらすべてにフルトヴェングラーカラヤンベルリン・フィルが関わってくるわけである。

 

 2番目の演奏家は、フリードリヒ・グルダである。ここでもカラヤンフルトヴェングラーを絡ませた物語が展開していく。またバレンボイムイスラエル国籍の著名な指揮者であり世界的ピアニストである。彼はベルリン・フィルイスラエル公演を実現させたが、そこでもカラヤンが登場してくるのである。個々の演奏家に焦点を当てる中で、歴史的背景も踏まえながらも決して重々しくならず、それぞれの演奏家の周りにいる人物をが点と点とを結び、有機的な繋がりを見せていく。この巧妙かつ軽妙である戦略的な語り口は、まるでクラウディオ・アバドの指揮のようである。良くも悪くも、好きも嫌いもカラヤンの偉大さを再認識することになる一冊であることも間違いない。そういう私はカラヤンの演奏は俺様過ぎて得意ではないのだが、それは人それぞれの好みということで大いにクラッシク音楽を楽しみましょう。